ペルソナと本来の自分


 このページでは、ペルソナの話について、もうちょっと違った角度から書いてみましょう。
 
 まず、ある「仮面舞踏会」を思い浮かべてみてください。そこに出席している人は全員、何らかの「仮面」をつけています。ある人は若々しく逞しい軍人、ある人は優雅で気品あふれる貴婦人、ある人は知性に満ち溢れた学者。それぞれ、自分がこうなりたい、あるいはこうなるべきだ、という姿を演じようとしています。その情景を思い浮かべてみたでしょうか?。
 
 実は心理学では、今の人間社会もこの仮面舞踏会と似たようなものだと考えています。たとえば、学生は学生らしい、先生は先生らしい、サラリーマンはサラリーマンらしい、警察官は警察官らしい、という仮面をつけて生きようとしています。しかし、その舞踏会がすんでしまえば、その人たちは自分の家へ帰っていくでしょう。その時、彼らはどんな顔をしているでしょうか?。
 
 人は社会生活において、その場面場面において様々なペルソナを使い分けて暮らしています。しかし、ある特定のペルソナを被りきってしまった人物は、他の役割を果たさなければいけない時にまで、そのペルソナと似たような考え方で生きていこうとしてしまう事があります。例えば、ある会社の重役に就いている人が、家庭にまでその仮面を持ち込み、家族を自分の部下のように接してしまうという話を聞く事があります。また、子供の頃、近所の子供達の親分だった人が、大人になっても周りのものに対して親分としてふるまおうとして、けむたがられるといった話もあります。
 
 こういった、一面的な生き方しか出来なくなってしまい、場面場面のあるべき時にあるべき姿でふるまえなくなってしまった人は、周りの人間関係に大きな摩擦を生むことになり、他人も自分も傷つけてしまうことが多くなるのです。
 
 これらのペルソナは、その相手と接するときにどのような意味を持って、その相手に対して、どのような役割を果たそうとするために、自分はそのペルソナを被るのか、そのあり方を常によく自覚しておく事が大切でしょう。こういったペルソナは、自分というものが、この人間社会の他の人達と潤滑に対応するために、その要求される役割をこなすために被る「仮面」なのです。実質的にただの見かけ上のもの、本来のその人自身の「素顔」とは言えないものでしょう。これを勘違いして、相手に対してこういった接し方で接することこそが、「私自身」であり、そして、自分がこう思うペルソナこそが自分の人生全てであるとして、自分には合わないペルソナを無理をして常に被ろうとすると、やがて、そのペルソナと本来の自分との間にギャップが生じ、その人は不安と抑圧に駆られた人生を送る事になってしまうのです。
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