アレイスター・クロウリー伝
(世界大戦から晩年まで)


世界大戦とチェス

 
 30年代も後半、世界は戦争に向けて、きな臭い事になってきていた。ドイツのナチスによるオカルト団体への弾圧なども行われており、対してクロウリーもヒトラーの事を黒魔術師として非難している。39年、とうとうヨーロッパで大戦がはじまり、クロウリーはイギリスの知識人達に混じり、戦争についての自論を語ったりしたようである。この時期に、彼がマスコミにVサインを勝利(Victory)のサインであると紹介したという話も伝わっている(真偽不明)。
 
 40年頃、クロウリーは喘息が悪化してしまう。それまで、彼は麻薬をやめる事が出来ていたが、喘息の症状の緩和の為、ヘロインを再使用。また中毒に陥ることになる。この喘息の療養も兼ねて、クロウリーはイングランド南西部のTorquay(トーキー)の地に移り住む。彼はそこで、地元のチェスクラブの会員達とチェスを楽しんでいたようだ。この頃には「黙示録の獣666」も歳を取って、まるくなっていた模様である。やがて、トーキーの地に飽きたクロウリーはロンドンに帰還。そこで彼はアメリカのOTOの団員Grady Mcmurtry(以後マクマートリー)の訪問を受け、マクマートリーに「Hymenaeus Alpha」の称号を贈ったのだった。このマクマートリーは後にOTOの歴史上重要な役割を果たすことになる。
 

トート・タロットと優しい魔術

 
(フリーダ・ハリスとクロウリー)
 話は前後するが、37年、クロウリーはFrieda Harris(フリーダ・ハリス。以後ハリス)という女性を自らの団に迎え入れていた。彼女に、絵画の才能を見出したクロウリーは、40年頃から彼女とともに自らのタロットの製作を始める事になる。このタロットはクロウリーがデザインの原案を起こし、ハリスが実際の作画を行う形で製作が進められた。最初、クロウリーはこのカード作成は短期間で終わると思っていた模様だった。しかし結局、カードが完成し、そのカードを扱った書籍「トートの書」が出版されたのは44年であり、約4年ほどの期間、製作にかかっている。だが、その出来栄えは素晴らしく、このカードは現在でも「トート・タロット」あるいはクロウリーのタロットとして、世界中にその愛好者を持っている。
 
 43年頃、クロウリーは、彼の下に魔術についての助言を求めて来た女性と、手紙のやり取りをしている。この一連の手紙は、クロウリーの死後に纏められ「Magick without Tears(涙なき魔術。あるいは、優しい魔術と訳される)」と題されて出版された。この書籍は、彼の魔術体系をどのように学習するかの入門書といえる内容になっているので、未邦訳ではあるが彼の魔術体系に興味を持った学徒は目を通しておくのが良いであろう。
 

新たなる弟子たち

 
 44年、クロウリーはKenneth Grant(ケネス・グラント。以後グラント)と出会い、彼に秘書をさせる代わりに魔術を教えている。このグラントは後にクロウリーから直接教えを受けた弟子として、リガルディーと共に語られる存在となった。ただ、彼らの魔術の研究スタイルはどちらかというと、リガルディーがGD団の教義を中心に「光」を希求する「右手の径(ライト・ハンド・パス)」のスタイルを取っていたのに対し、グラントはクロウリーの「闇」の思想面をより希求する「左手の径(レフト・ハンド・パス)」のスタイルを取っていたと対比させることが出来るであろう。
 
 この時期には、近代魔女術の父とも称されるGerald Gardner(ジェラード・ガードナー。以後ガードナー)もイギリスOTOに参入している。ガードナーはその能力を認められ、後にOTOの初伝三位階を伝授する小グループを任せられる事になったのであった。しかし、クロウリーの死後、ガードナーは結局OTOの活動を捨て、自らの魔女術の団体の運営に専念するようになってしまう。その為、クロウリーの死後、OTOの首領となったゲルマーは、ガードナーが抜けた後のイギリスOTOの責任者をグラントに任せることにしたのだった。しかし、グラントもまた独自の方向で活動を始めてしまい、結局、ゲルマーから破門される事になってしまう。
 
 晩年のクロウリーは、John Symonds(ジョン・シモンズ。以後シモンズ)に出会い、彼を自分の遺産の管理者に任命している。しかし、シモンズはよほどクロウリーに嫌な思いをさせられたらしい。彼はクロウリーの死後、クロウリーを否定的・冷笑的に扱った伝記を出版した事で有名になった。このシモンズのクロウリー伝記に憤慨したのがリガルディーである。彼は、師匠クロウリーと喧嘩別れした後、師匠クロウリーがばらまいた怪文書によって、名誉を傷つけられ魔術界から身を引いていたのだった。しかし、皮肉な事に彼自身が元師匠の名誉回復のために、1970年「The Eye in the Triangle」という彼自身のクロウリー伝記をもって、魔術界にカムバックすることになる。これらクロウリーの後継者たちについては、後日、当HPでも触れる予定である。

長男との再会。クロウリー死去

 
 晩年のクロウリーは麻薬の大量使用によりやせ衰え、また病で床に伏すことも多かった。しかし、この頃には彼はかつての恋人はおろか、肉親である子供からまでも見放されていたのであった。少数ながらも、熱心な弟子たちに囲まれていたとはいえ、弟子たちが求めるのはあくまでも師匠像としてのクロウリーである。彼を一人の人間として見てくれるものが殆どいない状況で、クロウリーは自らの病気や老いといった、人間としての弱さとの戦いで疲れ切っていたのだった。しかし、最晩年の47年の5月、クロウリーは思いがけない幸運に恵まれる事になる。MacAlpineが、クロウリーの実の息子であるAtaturkと一緒に会おうと連絡をしてきたのだ。クロウリーは、長男Ataturkの事を死んだと思っていたらしく、この再会の事で知人に「奇跡が起こったのだ!」といった歓喜極まった手紙まで出している。
 
 同年の夏、MacAlpineはAtaturkをはじめとした自分の4人の子供と一緒に、クロウリーのもとによく遊びに来た模様である。クロウリーも、この夏を楽しみ、肉親との貴重な時間を過ごしたのだった。実の息子を溺愛したクロウリー。彼は周りの弟子たちに、自らが死んだ後のAtaturkの世話や教育を頼んでいる。また、彼自身が息子に宛てて書いたとされる手紙の記録も残っている。手紙の内容は、クロウリー家の出自についてからはじまって、Ataturkにチェスが良い精神的鍛錬になるからやりなさいといったもの。また、ラテン語をはじめとして、出来る限り様々な国の言葉を勉強しなさい。そして、将来、良い英語を使えるようになるようにシェークスピアや旧約聖書も読みなさい、といった教育的な事まであり、息子の将来の事をとても心配する内容になっている。
 
 夏が過ぎ去った後、クロウリーは病気でいよいよ完全に床にふせってしまうことになる。しかし、この間もクロウリー家族は時々会って病床ながらも話をしたりしていた模様である。そして、Macalpineと穏やかな会話の時を過ごした翌日、1947年12月1日。クロウリーは心筋変性と慢性気管支炎により死去する。享年72歳であった。クロウリーの死の瞬間に立ち会ったMacAlpine。彼女はその時をこう語っている。今まで静かだったクロウリーの部屋に突然、強い風が吹いて彼の部屋のカーテンを巻き上げた。そして、雷の音が聞こえたが、それは、神々が彼へ挨拶をしたようだった、と。
 
 彼の死の直前の言葉は、有名なものに「I am perplexed」(私は困惑している)というものがある。しかし、実はこれは違うという説もあり、そちらでは最後の言葉を「Sometimes,I hate Myself」(時々、私は自分自身が憎い)だったとしている。また、クロウリーが死んだ時に来ていた衣服のポケットには、大財をもたらすというアブラメリンの護符が大事そうにしまわれていたという。彼は死の時に自分の人生を振り返って、どのように思ったのであろう。
 
 四日後、クロウリーの遺体は火葬にされた。クロウリーの遺言では、自らの葬式では「法の書」の全てを朗読してくれとの注文もしていたらしい。しかし、実際の式では、長くなりすぎるため、結局、その抜粋だけが読みあげられた。どこまでも、希望通りに行かないクロウリーだった。しかし、とことん人に嫌われていたとされていたクロウリーだが、意外な事に彼の葬式には弟子だけでなく、彼を知る人達も多く参列したという。実際、クロウリーの事を直接知る人は、彼について良い意味でも悪い意味でも「子供(ただし、躾けられてない)のよう」だったと評する事も多いという。自分が世界で一番。ロマンティストでありながら下劣な品性。社会を知らない。人をおちょくるのが大好き。寄生虫のよう。他人の事を理解できない。人をすぐ非難する。気に入らない事には、すぐ癇癪を起こす。しかし、自分が信じること、好きなことにはとことん集中し天才的な能力を発揮する。長くつきあう事は難しいが、人を魅了する何かがある。アレイスター・クロウリーとは、そういった人物だったようである。
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