アレイスター・クロウリー伝
(セレマの僧院設立から僧院崩壊まで)


ハーシグとシャムウェー

 
 新大陸に大借金を残してロンドンに戻ったクロウリーだったが、自国でも金欠状態は変わらなかった。彼は、自らの団体が首領様の為に、留守の間に金を積み立てていることを期待したようだったが、結局、団の金銭係が、その金を横領していたことが判明しただけであった。また、愛弟子(金づる)だったノイバーグはクロウリーと喧嘩別れし音信不通。おまけに黒魔術までかけると脅してやったのだから、戻ってくるはずがない。そして、かつての師匠ジョーンズも、この時期には社会的地位が高くなっており、世界最大悪人クロウリーは相手にもされないのであった。
(レアー・ハーシグ)
 
 そして、彼は格好の餌(ネタ)が戻ってきたことを嗅ぎつけたゴシップ誌から、すぐさま攻撃を受けることになる。ロンドンに居辛くなったクロウリーは、20年の1月にパリに移る。ついでに彼は新大陸に残してきた恋人のハーシグに、パリで一緒に住まないかと手紙を書いたのであった。ハーシグはアメリカでは教師の職についていたが、平凡な生活に飽きが来ていた模様である。また、クロウリーの子供も宿していたこともあったのだろう。彼女はクロウリーの誘いに応じ、船でパリへ移動することにしたのだった。
 
 その船旅の途中、彼女はNinette Shumway(ニネット・シャムウェー。以後シャムウェー)というフランス人の女性と親しくなる。シャムウェーは当時、夫に先立たれており、仕事を探していた。また、ハーシグも妊娠中であり、ちょうど面倒を見てくれる人材を必要としていた。ハーシグはこの事をクロウリーに相談。クロウリーは一緒に来て暮らせば良いとの返答をしたようである。その為、ハーシグはシャムウェーと一緒にクロウリーの下へ行ったのだが、結局、シャムウェーもクロウリーの恋人となってしまったのだった。ハーシグはその後、クロウリーの娘を出産。そして、すぐにシャムウェーもクロウリーの子供を妊娠する。
 

「セレマの僧院」設立

 
 この時期まで金欠に苦しめられていたクロウリーは、母親(親戚との説も)が亡くなり、その遺産で、ようやく暮らしに余裕を持つ事が出来た模様である。そこで、クロウリーは、自らの教えであるセレマを信奉する者達のコミュニティを作るアイデアを思いつき、同年3月1日、その候補地を決める為の易占いを行ったのだった。幾つかの候補のうち、シシリー島のチェファルー村を試すと占いで吉と出たため、彼は早速、その地に良い物件を探しに行く。
 
 チェファルー村についたその日に、良い物件を見つけた彼は4月2日、その物件に移り住む事になり、晴れて「セレマの僧院」を設立する事になったのだった。この建物は僧院と名称をつけているが、元々は平屋造りの農家で、中は部屋が6つあり、その中央の大きな部屋を神殿にしつらえたものだった。家族と共に、この建物に移り住んだクロウリー。彼は、夢であった自らの教えのコミュニティーを設立する事が出来、しかも2人の恋人と子どもたちに囲まれ、当初はご満悦な日々を過ごしたようである。また、この「セレマの僧院」は世界に知れ渡り、様々な地からクロウリーの教えを慕って人が集まるようになる。

(セレマの僧院と、そこでの集団儀式の様子を写したとされる写真)
 
 この地で彼は、太陽にリズムを合わせた魔術的な日々を送ったという。また、僧院を訪れたゲストが残した体験談には、このコミュニティでの生活は意外に健康的であったとも残されている。しかし、もちろんそれはゲスト相手のことであり、クロウリーやその周りのもの達は、麻薬や性魔術に没頭する日々であった。雄山羊とハーシグを魔術儀式的に交わらせようとしたり、その後には言うことをきかない雄山羊の首を掻き切り生贄にする儀式が行われた。また、ハーシグの大便をクロウリーが食したりもしたとの記録も残っており、この僧院の内部では、かなりの背徳的・変態的行為が行なわれていた模様である。
 
 この僧院は衛生環境も劣悪であり、建物の周りには野良犬などが徘徊するようになっていたともいう。そして、クロウリーも同時に2人の女性を満足させることは出来なかったのであろう。次第にハーシグとシャムウェーの仲が険悪なものとなり、しょっちゅう彼女たちが僧院の中で喧嘩やヒステリーを起こしては、クロウリーを悩ましていたようである。
 

ジェーン・ウルフ

 
 同年の7月にJane Wolfe(以後ウルフ)がセレマの僧院を訪ねて来ることになる。彼女は女優として有名になっていたが、仕事で心を病み、18年頃から精神世界の事について、クロウリーと文通をしていたのだった。有名な女優がセレマの僧院に来ることになって、クロウリーはかなり喜んだようである。まだ会ったこともないのに、彼女を美化して「私は貴女に我が全てを捧げよう」という主旨の詩まで書いている。
(ハーシグとクロウリーと子供達)
 
 しかし、実際に来たのは粗末な姿をした女性であった。しかも、彼女はクロウリーの言うことに、ことごとく反発までする始末。とうとう怒ったクロウリーは彼女に、修行として粗末な一人小屋で数日瞑想に没頭するか、あるいは自分の言うことが聞けないなら帰れと宣言する。ここまでせっかく来たウルフは結局、瞑想を行う事にしたのであった。しかし、この瞑想が良い作用をもたらしたのであろう。ウルフの心の中にある静謐さが生まれたようであった。ウルフはこれが魔術修行の効果だと思い、クロウリーの団体に入団したのである。そして、彼女は後にクロウリーの秘書まで勤める事になる。
 
 同年10月の中頃、クロウリーとハーシグの間の子供が死ぬ。また、その時ハーシグは次の子を妊娠していたのだが、これも流産してしまう。重なる悲劇に、とうとうハーシグは大癇癪を爆発させてしまい、この不運は全て、シャムウェーの呪いのせいだと言いだす。何故か、クロウリーもその言い分を認めて、僧院からシャムウェーを追い出してしまったのだった。

イプシシマス昇進と金欠

 
 21年、クロウリーはとうとう、自らを魔術界での最高の位階「イプシシマス」の位階に達したと宣言。しかし、そのすぐ後に、彼はまたもや遺産を使い果たしてしまい、金を稼ぐ必要に迫られてしまったのだった。魔術界では最高の地位についたと宣言しても、現実界ではどん底の状況だった訳である。しばらく金策に悩むクロウリー。しかし、ど田舎チェファルーでは金を稼ぐのが無理な事にようやく気がついた彼は、22年にフランスへ行く。金をたかれそうな弟子をみつけたからである。しかし結局、その弟子には警戒されてしまい逃げられたようである。
 
 失意のうちにイギリスへ戻ろうとしたクロウリーは、国境のブローニュの近くで逮捕されることになる。横領の罪で逃げていた財務官と間違われたのであった。すぐに疑いは晴れてクロウリーは釈放されたのだが、彼は後に、金も持ってないのに横領の罪で追われている人物と間違われるなんて!、と嬉しそうに語ったそうだ。
 
 そして、ロンドンに戻った彼に、思いがけない良い話が舞い込む事になる。コリンズ出版社の文芸顧問であるJ・D・ベリズファドが、クロウリーに麻薬を題材とした小説を書いてくれと持ちかけてきたのだ。これは、クロウリーにとっては初の商業出版の小説となった。彼は1カ月弱でこの小説を書き下ろし、「Diary of a Drug Friend(麻薬常用者の日記)」と題して出版。この小説はクロウリーが書いたわりには、麻薬常習を戒める内容だったため、最初は出版界でも好評に迎えられたようであった。その為、コリンズ出版社は、続いてクロウリーに彼の自伝や、短編集の執筆を依頼したり、レヴィの「神秘への鍵」の翻訳契約を交わしたりまでしたようである。
 
 しかし、クロウリーの名が出てくるにつれて、またもマスコミのクロウリー叩きが始まったのだった。最初はコリンズ社は、このクロウリー叩きにより、彼が有名になれば、その著書が売れると喜んでいたようである。しかし、クロウリーの反キリスト教的な行いも広まってしまい、聖書などの出版を商いの中心としていたコリンズ社としては、クロウリーの悪行をかばいきれずに彼との契約を打ち切ってしまう事になる。
 

「セレマの僧院」崩壊

 
 そして22年11月、セレマの僧院は運命的な来客を迎える。オックスフォードで首席を取った事もある秀才Raoul Loveday(以後ラヴデイ)が妻のBetty May(以後メイ)とともに、セレマの僧院に夫婦で加わり、クロウリーの弟子となったのである。夫の方はこのセレマの僧院を非常に気に入ったようであったが、妻の方はかなり嫌悪感を持ったようであった。後に彼女が出版した本では、この僧院にいた当時、身体を洗っている時には、よくクロウリーに覗かれ、また、クロウリーの子供たちは躾も全くなって無く、メイに対して「自分達は獣2号だから、お前を簡単に木端微塵に出来るぞ」と意味不明なたわごとで脅してきたりもしたという。
 
 23年2月、クロウリーは自分の指に噛み付いてきた野良猫を捕まえて、腹いせに魔術儀式の生け贄にしたのであった。この時、ラヴデイもクロウリーと共に魔術儀式で野良猫を生け贄として殺害。両者ともに、その血を飲み、直後に腸炎を起こし2人して倒れる事になったのであった(天罰である)。当初、クロウリーは、まだ症状が軽かった模様だったが、ラヴデイはかなり重篤になってしまう。しかし、クロウリーは金を惜しみ、ラヴデイを医者に殆ど見せなかったという。結果、同月ラヴデイは死んでしまう。クロウリーは彼を、セレマの尊い殉教者として魔術式の葬式を行ったそうである。しかし、その後、結局クロウリーも症状が重症化し、一カ月近く寝込んでしまう事になる。
 
 また、夫が死んでセレマの僧院を抜け出したメイが、その一部始終をサンデー・エクスプレス社に伝えたために、マスコミがいよいよこぞってクロウリーを叩く事になる。「食人鬼」「絞首刑に処したいやつ」などと書かれながらも、クロウリーは目立った反論をしなかった為、マスコミの攻撃は、ますます悪化。さすがのクロウリーもこの時は病床にあって心細くなったらしい。その頃の有力な弟子であったNorman Mudd(以後マッド)を自らのところに呼び寄せたりしたようである。
 
 そして、とうとう悪評が当時シシリー島を統治していたムッソリーニ政権の耳に入ってしまった。クロウリーは23年4月、イタリア政府から国外退去を命じられてしまうのである。彼は、同年5月1日にセレマの僧院を退去。セレマの僧院も閉鎖となってしまった。ちなみにウルフは、この時クロウリーといったん別れて女優業に戻ったようである。
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