W・W・ウェストコット

 

 William Wynn Westcott(以下、ウェストコット)はGD団を創設し、その三首領の一人となった人物として、現代にその名を知られる。GD団のもう一人の三首領、メイザースがGD団の歴史上で良くも悪しくもいろんな意味で目立ったため、その影に隠れてあまり評価されないところもあるが、フリーメーソンや神智学、英国薔薇十字協会、ヘルメス協会、八人会などの秘教を研究する様々な団体にも出入りし複数の団体の幹部になったり、講演も行ったりするなど、彼の隠秘学に対する知識・実力は相当のものだった。
 
 ウェストコットの性格は、現在も残っているGD団の団員達との手紙のやり取りを見ると、温厚であり友好的であった模様が伺える。彼自身は博士号は持っていなかったが、オカルト仲間達からは「Dr.Westcott(ウェストコット博士)」などとも呼ばれ、信頼も厚く、よく後輩達の様々な悩みの相談にのっていた。また、彼は細々とした事務的作業にも長けており、GD団の様々な運営に手腕を発し、初期のGD団の順調な発展は彼によるものが大きいと見られている。この点、後に紹介する三首領の一人、メイザースとは対照的である。
 
 しかし、温厚なウェストコットもたまに激情的な気質を出す事もあり、ある人物を「地球から追放してやりたい」などと書き記した手紙の記録も残っている。また、害意の無い嘘や作り話をよくしていた模様で、様々な場における立ち回り方も上手く、後世のGD研究家に「老獪」「タヌキ親父」などと評される。
 ウェストコットは1848年12月17日、イングランド中部のWarwickshireのLeamingtonという土地に生まれた。彼の父は外科医だったが、ウェストコットが10歳になる前に、両親とも死亡してしまい、同じく医者だった叔父のRichard Westcott Martynに引き取られている。彼は何も知らない他人には、よく自らを一人息子だと言っていたが、実は6人子供の末っ子だったらしい。しかし、兄姉達とは折り合いが悪かったらしく、長じてからは殆ど付き合いは無かった模様である。
 
 1860年、Kingston-upon-thamesのQueen Elizabeth Grammer Schoolに入学。やがて、父や叔父と同様に医学の道を志す。1871年、University College,Londoneを卒業し医師の資格を得、SomersetのMartockで医者をやっていた叔父の助手となる。また、同じ頃にフリーメーソンにも入会。その後、多くのロッジに参入し高位階を勤めている。
 
 1873年結婚。相手はElizabeth Burnett。最終的に5人の子供をもうけるが、ウェストコットのオカルトへの情熱とは裏腹に、夫人は彼の趣味には興味は持たなかった模様である。1879年、叔父の死亡を機に、夫人と3人の子供ともどもロンドンのヘンドンに移住。2年間ほど職を離れて、オカルト研究に没頭している(この行動は西欧神秘伝統的には”Retired”あるいは”Great RetiredW。【隠居】【隠退】あるいは【魔術的隠退】などと呼ばれる)。
 
 1880年ごろ、フリーメーソンの高位階者のみを参入の対象とした英国薔薇十字協会(SRIA)に入会。ここでウッドマンと知り合うことになり、更なるオカルト的な知識を教え込まれる。また、後には同協会でメイザースとも知り合い、彼にはウェストコットがオカルト的な知識を教え込んだという。1881年には公職にも復帰しロンドンの代理検死官になる。後にはロンドン北東部担当の正検死官という重職にも就き、晩年になるまで生業とする。
 
 1882年、SRIAのGeneral Secretaryに昇進。その後、八人会にも入会。1884年春、神智学協会に入会。また、アンナ・キングスフォードにも出会う。アンナ・キングスフォード。19世紀のヴィクトリア朝にあって女性差別の撤廃を唱えた急進的な女権論者であり、神秘キリスト教を中心としたオカルトにも造詣が深く、そして絶世の美女とあってウェストコットは彼女から多大な影響を受ける。同年夏には彼女の創設したヘルメス協会の名誉会員に迎えられる。このヘルメス協会はオカルトを広くカバーする団体であり、また男女平等参加を旨とするものであった。
 
 1885年、母親を亡くしたメイザースが家に転がり込む事になる。1886年夏には、メイザースとともにヘルメス協会でアンナ主催のオカルト講義を行うが、この際のプログラム・カードのタイトル・ページにはWSapiens Dominabitur AstrisWのモットーがあったとの事である。このモットーは、後のウェストコットがGD団を創立するときに用いた秘密の首領の魔法名になる。
 
 ウェストコットを熱中させたヘルメス協会であったが、アンナの病気の悪化により自然休会となる。また、その少し前の1885年、八人会で共にオカルトを研究した大先輩であったフレデリック・ホックリーが、そして1886年にはケネス・マッケンジーも亡くなっており、この頃には、ウェストコットの胸中には、アンナのヘルメス協会を継ぐような形でのオカルトを研究する新しい団体の構想があったのであろう。
 ウェストコット自身が、後に黄金の夜明け団の団員に語っていた話によると、1887年、彼は知り合いのウッドフォード牧師から不思議な暗号文書を譲られる事になった。牧師は暗号文書を渡してすぐ亡くなってしまうが、ウェストコットはそれが西欧の伝統的秘密結社の入門儀礼のメモであることを解読する。そして、暗号文書に記されていたドイツの魔術結社「黄金の夜明け」団の首領達人Fr.A.Sprengel(魔法名SDA)とコンタクトを取り、1887年11月26日付けの返事の手紙を受領する事に成功。その中で、SDAからイギリスにGD団の新しい支部(No.3)を設立するように指示され、GD団の第3支部「イシス・ウラニア・テンプル」を1888年に開設する事になったという。
 
 しかし現代の研究では、実際には暗号文書の作者は八人会のケネス・マッケンジーだと考えられている。また、ウェストコットも関係者を通して、その文書に関する何らかの情報は聞いていた。あるいは自らもその作成に関わっていたのかもしれない。いずれにせよ、この暗号文書の内容をベースに、彼は1886、87年頃から新しい団体の設立に動き始めたのだ。
 
 この頃の神秘伝統を活動の対象とする団体は、その多くが団の由来に神秘的な話を用いることが多かった。遥か古代より続いている団であるとか、団を率いているのは神秘的な人物であるといった話がよく聞かれたのである。様々な団体に出入りしていたウェストコットはもちろん、それらがハッタリに過ぎないことを理解していた。しかし、そういった話に惹き付けられて多くの人が団体の門を叩くと言うことも事実である。
 
 その為、ウェストコットも新規団体創設に当たって、何らかの霊的権威を捏造する必要を感じる。そこで彼の頭に浮かんだのはアンナをモデルとした秘密の首領を作ることだったのであろう。そして、女性の秘密の首領シュプレンゲル(魔法名Sapiens Dominabitur Astris)が生まれる事になる。彼はまた、暗号文書にSDAの連絡先を暗号で書いた文書を自分で一枚付け加えて、このSDAとの手紙のやり取りの捏造を始めたのだった。
 
 この頃、メイザースはウェストコットの自宅に住みつき、毎日、大英博物館に通うなどして研究に励んでいた。こう言えば聞こえは良いが、実際は単なる宿無し無職であり、ウェストコット家に寄生して毎日、趣味のオカルトに熱中していたのである。しかし、メイザースのオカルトに関する知識と実力は本物である事を理解していたウェストコットは、暗号文書の発見と秘密の首領SDAから指示をもらった事により、新しい団を創設しようと思っている事をメイザースに話す。そして、メイザースに頼んで暗号文書には簡単な骨組みしか書かれていなかった各位階の参入儀式を、新しい団で実際に使える儀式として書き直してもらったのだ。
 
 こうした準備を経て1888年3月1日、イギリスにドイツの「黄金の夜明け団」の第3支部、「イシス・ウラニア」テンプルが開設される事になる。この支部は、開設当初はウェストコットと、そのSRIAの恩師であるウッドマン、SRIAの後輩であるメイザースの3人だけだった。しかし、その後、ウェストコットの巧みな宣伝や勧誘活動。そして、団の運営によってGD団は順調に人数を増やしていく。
 団の運営も軌道に乗った1890年。ウェストコットはもうドイツの秘密の首領の権威は必要ないと思ったのであろう。SDA死亡を知らせる手紙を作成。彼は、GD団を正体不明の存在から脱却させようとする。しかし、これは意外な結果を招いた。メイザースが自分も別の秘密の首領とコンタクトを取ったと言い出したのである。そして、メイザースは秘密の首領から受け取ったと言う高度な秘教的知識を用いて、GD団の第2団を本格的な魔術結社に改造していく。ウェストコットがこれをどう感じたのかは定かではない。しかしメイザースの用意した秘教的知識の有益さは彼も認めたのであろう。その後の第2団の為にもウェストコットは様々な助力をしている。
 
 1891年12月、SRIAのトップだったウッドマンが亡くなった為、ウェストコットがその後を継ぐ事になるが、GD団の三首領の座の一つは結局、空席のままとなる。1892年、メイザースがパリへと移住するが、その後、団内ではメイザースを中心として様々なゴタゴタが絶えなくなっていく。そして1897年、ウェストコットにとって手痛い事件が起きる。この年、GD団の文書を誰かが貸し馬車に置き忘れた為、この落とし物が警察に届けられたのだが、そこからウェストコットとGD団との関係が警察上部に知られる事になってしまったのである。警察上部は、こういった秘密結社(魔術結社)に警察関係者が関わるのは好ましくないものとし、ウェストコットは彼の職を続ける為に、GD団を退団することになってしまう。
 
 しかし、この退団には別の理由もあると言う説もあり、その説ではこの時期、GD団に執着し精神的におかしくなってきていたメイザースに嫌気がさし、表面的にGD団から身を引いたという。実際、表向きにはGD団を退団したウェストコットだったが、その後もGD団関係者も含む親しい仲間たちとは深くオカルト研究を続けていたらしい。また、SRIAをはじめとするフリーメーソン関連団体の様々な役職も続けている。
 
 そして、1900年メイザースはとうとうGD団のロンドンメンバー達から愛想を尽かされてしまい、団を正式に追い出されてしまう事になる。メイザースは激怒して、その忠実な部下であるベリッジに命じて、ロンドンにもう一つイシス・ウラニア・テンプルを作ったのだが、ウェストコットも呼ばれて9月にその団の幹部に就任している。ただ、彼はこの団での活動は実際は殆どしていなかったらしい。
 1918年、長年続けた検死官の職を辞め、1919年、末娘の家族と共に南アフリカのダーバンに移住。現地の神智学協会や、フリーメーソンの幹事となり活動していた事が記録に残っている。そして1925年6月30日、死去。
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